FC2ブログ

深夜のからっぽ

  14, 2018 00:36
 「異分子」なんて表現するには私は凡庸すぎる人間なのだけれど、それでも今まで自分が身を置いてきた場所にはどうにも「置いてもらっている」という感覚が常にある。私はなんとなく漠然と「よそもの」なのだ。どこでも。
 私が大学に進学するころまで我が家は借家暮らしで、転居は覚えているだけでも6回した。小学校の時には3回転校した。「子供は大学を出たら家を出るもの」と両親に幼い頃から言い聞かされてきたから、実家も「出るが当然」と思って迷いもなく出たというか、出るべくして出た。そういう「流れ」があったから。高校進学も大学進学も休学して田舎に行くと決めたことも、つねに「流れ」があった。私は「あ、そういう流れなのか」と思って乗ってきた。後悔も特にない。
 自称「なんとなくよそもの」の私にとって、場所との別れは自分で選ぶものでも決めるものでもなく「突然くる」ものだ。どのタイミングでくるかなんてわからない。でもくるべくしてくる。訪れるべくして訪れる。

 中途半端な話の変え方をするけれど、私は自分の生命活動に対して「生きてる」よりも「生かされてる」感覚の方が強い。周りの人や環境、今日の天気、星の位置、めぐりあわせ。隣の、近くの、遠くの、あるいは地球の裏の誰かのため息、笑い声。私の「生」はたくさんの糸が絡み合って、今日も偶然につなぎとめられている。のだと感じる。

 私の思考回路は、イソップ童話のすっぱいブドウの話がベースだ。手に入らなかったもの、足りないものは「私には必要のないものだったんだな」と思う。逆に手に入ったもの、そばにあるものは「私に必要なものだったんだな」と思う。これが自分を納得させるための方便なのか、それとも言葉通りなのか、いつもわからなくなる。
 正直環境には恵まれて生きてきた。両親も祖父母もきょうだいも大切に思うし思ってくれているし、お金の心配もしたことがない(これはことさらに両親の努力によるものなので、本当に感謝している)。勉強も運動も自分を嫌いにならない程度にはこなせたし、絵を描くことも文を書くことも写真を撮ることもたぶん、人にためらいなく見せられる程度の技量ではあるのだろう。でもどれも、なにも、なにひとつ、私は自分で選んで決めて掴んできた感じがしない。いつの間にか手の中にあって、いつの間にか結果が転がり落ちてきて、なんかそう言う流れがあって、来るべくして、たどり着くべくして、わたしは今日も「生かされてしまった」。

 なーんてことを、やっぱり基本的に何不自由ない(あえて言うなら体力と休みが足りないくらいだ)生活の中で、ふっとぽっかり考える。こう言うとき、私10年前と考えてることあまり変わってないなーと思って笑ってしまう。いつまで私はからっぽなのだろう、とセンチメンタルなことを考える。どうしたら自分をはりぼてじみて感じなくなるのか、よそものだと感じなくなるのか、手に入らないものにそれでも手を伸ばせるのか、思い切り憤り悲しみ誰かを想うことができるのか。わからない。すこし悲しい気がする。今日はもう寝ようと思う。
スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment

What's New