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いつの間にか2019年になっていた

  14, 2019 19:58
 遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 今年はなんとですね…ほんとのほんとの久しぶりにおみくじが大吉だったのですよ。ふふ。しかし、しっかりと「何事も正直にして他人を恨まず仕事大事と励みなさい」「影が鏡か、かがみがかげか、拝む心が、神ごころ」と、自分の立ち振る舞いを諫められた感じです。心あたりが…あるもので…(視線をさまよわせつつ)。後者は「他人は自分の鏡」の意味もあるんだろうなあ…と感じる今日この頃。
 話はかわりますが、先だっての土曜日、新年明けて早々に奇石の定期更新が……できませんでした!!来週更新できたらいいなあと思いつつ、私が創作はかどらないのはオフラインの生活がそこそこ順調である証左でもあるので(受験とか卒論とか就活とか忙殺されてるとかそんな時期ばかり創作はかどる人間なのです)、生暖かく見守っていただけるとうれしいです。でもできれば更新したいです。昨年新規の作品を全く公開していなかったのもあって、改めて、こうして更新してリアタイで追いかけてもらえて、反応もらえるのがすごくすごくうれしくて、ありがたいことなんだなあと感じてます。ありがとうございます ✌ ('ω' ✌ )三 ✌ ('ω') ✌ 三( ✌ 'ω') ✌

 そういえばこの2年テレビがなかった我が家ですが、年末にプライベートビエラを買いました。Blu-rayとDVDが観たかったので、未だに地上はつないでいないんですけど。笑 おかげでおうちでアイカツ武道館も、エウレカセブンも、レヴュースタァライトも、観られるようになりましたー!なんとお風呂でも使えるので「自宅の浴槽絶対使わないマン(冬でもシャワー)」だった私が、自宅の浴槽にお湯をはるようになりました(今まで浸かりたいときは銭湯行ってました)。でもそうすると湯があっという間に冷めていくのがつらくて…そこでTwitterで見かけた「ツムラのくすり湯」を導入してみたのですが、これが良い!お湯が冷めていくのが苦にならないというか、芯が暖まる感じです。大変良いです。さらにあつあつ湯たんぽを湯船に投入することで保温効果もアップ。これはすごい…生活の革命だ…と感じています。あと買って良かったものといえば、ユニクロのルームシューズ。パンプス型の1000円以下(お安い)なんですけど、あったかい…床の冷たさが伝わらないよう…。そして極めつけにニトリNウォームの敷き毛布・掛け毛布を完備したベッドwith湯たんぽにインすれば冷え知らずですよ…。ニトリNウォーム、年末にも散々主張してましたが本当に暖かくてお勧めです。肌触りも気持ちよいです。おすすめ!よきぽかぽかライフを一緒に送りませんか…?(どこの手先だという感じですが)
 そんなわけで生活環境が向上したよ、というお話でした。

 未だに2019年、平成31年っていう感覚がなくて、よく仕事でも記載を間違えます。創作面での今年の目標は、コトバ小曲集をきちんと発行すること、奇石を無理のない範囲で更新していくことですかね。スオツムも降りて来たら進めたいです。オフラインでは、去年1年で力の抜き方やうまいサボり方を若干身につけたので、今度逆に浮いた部分をどう生かしていくか…という感じです。写真あ、あと今年も5月に松本市美術館市民ギャラリーでの写真展に出展させていただける運びになりました。またお知らせします。
 長々益体もなく書いてしまいましたが、今年もゆるりとおつきあい下さい。ツイッターも相変わらずツイートがめちゃくちゃ多いので、リムーブもミュートもご自由に。私もわりと頻繁にリムーブやミュートしますが、どちらかというと私側の心的な問題が大きくて(疲れてたりとか、情報量を搾りたいとか)そうしている場合が多いのですが、それこそやりとりが無理だと思ったらブロックしてしまう人間なので、勝手な話ですがF外でも構っていただければきゃっきゃします。
 インフルはやってきてるみたいですね。気を付けて過ごします。ここまで読んで下さったあなた様も、ご自愛してお過ごし下さい。
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2018年ありがとうございました

  31, 2018 23:10
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好き好き大好きー!なものに囲まれた一年でした

 2018年ありがとうございました。なんか基本は昨年のまとまってないまとめ記事から地続きの一年だったな〜と思います。2月にアイカツ武道館に行って!8月にサイト10周年記念本を発行して!(あ、一時的に通販開けてみました。もしよろしければご利用ください)、11月にはエウレカハイエボのANEMONEに号泣し!年の暮れにはレヴュースタァライトにも出会えた!ハッピーな年でした。来年はレヴュスタの舞台観に行きたいんです〜!行けるといいなあ。

 Twitterの創作TALK 2018−19 に参加しようと記事を書きはじめたのだった。創作についても話すべきだ。話すべきでしょう。
 今年の最大かつ唯一と言っても良い創作といえば、先述の「サイト10周年記念本」でした。サイト開設から10年分の短編10編(遅筆なので本数少ないんですよ)+αを収録した本です。中学生時代に書いた童話2編から始まり(もちろん手を入れています!!笑)、他の作品も作品によってはわりと手を入れました(龍神あしびなんかはぜひ収録版を読んで欲しいー!って思っています)。
 あ、あと何より。初めて「献辞」なるものを入れました。この本を手に取ってくださった、この10年の中で出会ってくださった方に伝えたい言葉を、短いけれど、ささやかだけれども、本の冒頭におきました。ここに書こうか迷ったんですけど、ページをめくってくださったあなたとわたしの秘密ということで…笑 とか言ってると本当に書くことないですね。ここまで全部中身のないことばかり言っているぞ。

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苦し紛れのあとがきチラ見せ

 記念本に合わせて掌編アンソロ「Anthologia」も作りました。20人の物書き様に私の撮った写真に文章を添えていただくというめちゃくちゃ贅沢な一冊になりました。このアンソロが本当に、とてもとてもよかったので来年も掌編アンソロを発行することにしました。

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画像クリックで特設サイトに飛びますよ!
 
 ちょっと私の宣伝や行動が追いついてなくて(社会人になってからの創作並行作業がこんなに厳しいとは思っていなかった)、寄稿者様にはご迷惑かけどおしなんですけれども、来夏発行します!パッケージはもう決まっていて、プラスチックの透明スリーブにCDサイズの冊子を封入します。これはもう譲れない!ぜひぜひ楽しみにしていてください。中身には寄稿者様のおかげで絶対の自身がありますので、それに見合ったパッケージを作り上げてみせます。2月コミティアではフライヤー配ります。あ、そうなんです。2月のコミティアにでます。よろしくお願いします。

 すごい、ここまで基本的に話に中身がない。どうしよう。困るなあ……でももう仕方ないなあ…もう23時だしとりあえずまとめようか…(雑)

 今年も本当に私にだったり作品にだったり、あたたかくて優しい言葉をたくさんいただきました。ありがとうございます。そのおかげで曲がりなりにも人間として新たな1年を迎えられます。いやほんとに。すぐに人間をやめそうになってしまうので!!!!踏みとどまりました!!!!
 なかなかいただいた分だけお返しができないままなのですけれども、少しずつ頑張りますので、来年も何卒よろしくお願いいたします。新しい一年があなたもわたしもハッピー!な一年になりますように!!!!

 青嶺トウコ

晩秋の走り書き

  22, 2018 19:24
 秋が長い。11月末になっても、北アルプスの頂が白く染まらない。昨年の記録を見返すと、ちょうど今時分に平地でも初雪が降ったようだ。すっかり短くなった(早くなった?)日脚とのギャップに戸惑いつつも、日暮れに北アルプスを眺め、太陽の沈む位置が大きく変わっていることに気付く。常念岳から蝶ケ岳の方へ、北アルプスから中央アルプスの方角へ、いつしか大きく南に。星や世界の営みをダイナミックに目の当たりにしている。不思議な感覚だ。
 Twitterにも写真をたくさん載せたのだけれども、今年は例年以上に色づいた葉にレンズを向けた気がする。私はたぶん、秋にあまり思い入れがない。夏と冬のつなぎ、いつしか終わっている駆け足の季節。紅葉をきれいだなと感じる一方で、水気を失ってひび割れた色に変じていく葉を見ていると少しぎすぎすとした気持ちになる。晩秋の景色は私に、年を取ることを悲観する艶麗な女の口紅だとか、乾いた喉の奥から漏れる声なき声を連想させる。命が失われ、損なわれると感じるのは、冬より秋だなと思う。そういえば、これは私の大好きな中西進先生のこれまた大好きな著書「日本語で読めばわかる日本語」の引用になるのだけれど(これももうたぶんTwitterで10回は引用してる。適当に笑い流して欲しい)、日本語において人間と植物は対応していて、例えば「芽」は「目」であるし、「花」は「鼻」である。「実」は「身」だ。そして「萎ぶ」は「死ぬ」と、「枯れる」は「(魂)離る」と対応しているそうだ。私はこの説には感覚的にとても深く納得するものがあって、好きだ。そして秋が来る度に、萎び、枯れていくものを思う。この地上から離れて消えていく何かを、感じる。
 ただブログに何か書こうと思って(広告でちゃったからね)書き始めたものだから、何が書きたいわけでもないのだけれど。今年は本当に秋が長い。越冬のために飛来した白鳥も少ない。朝もまだ起きられる。手前の山々に霜が降りて真っ白に染まる様を今年こそは撮りたいな、と思っているのだけれども。いつかな。
 長い秋の中で、いつもより少し多く色づく葉っぱたちをよく見た。よく目に留まった。今年の秋はなんだか穏やかだったなあ。なんでだろう、と益体もなく考えている。

深夜のからっぽ

  14, 2018 00:36
 「異分子」なんて表現するには私は凡庸すぎる人間なのだけれど、それでも今まで自分が身を置いてきた場所にはどうにも「置いてもらっている」という感覚が常にある。私はなんとなく漠然と「よそもの」なのだ。どこでも。
 私が大学に進学するころまで我が家は借家暮らしで、転居は覚えているだけでも6回した。小学校の時には3回転校した。「子供は大学を出たら家を出るもの」と両親に幼い頃から言い聞かされてきたから、実家も「出るが当然」と思って迷いもなく出たというか、出るべくして出た。そういう「流れ」があったから。高校進学も大学進学も休学して田舎に行くと決めたことも、つねに「流れ」があった。私は「あ、そういう流れなのか」と思って乗ってきた。後悔も特にない。
 自称「なんとなくよそもの」の私にとって、場所との別れは自分で選ぶものでも決めるものでもなく「突然くる」ものだ。どのタイミングでくるかなんてわからない。でもくるべくしてくる。訪れるべくして訪れる。

 中途半端な話の変え方をするけれど、私は自分の生命活動に対して「生きてる」よりも「生かされてる」感覚の方が強い。周りの人や環境、今日の天気、星の位置、めぐりあわせ。隣の、近くの、遠くの、あるいは地球の裏の誰かのため息、笑い声。私の「生」はたくさんの糸が絡み合って、今日も偶然につなぎとめられている。のだと感じる。

 私の思考回路は、イソップ童話のすっぱいブドウの話がベースだ。手に入らなかったもの、足りないものは「私には必要のないものだったんだな」と思う。逆に手に入ったもの、そばにあるものは「私に必要なものだったんだな」と思う。これが自分を納得させるための方便なのか、それとも言葉通りなのか、いつもわからなくなる。
 正直環境には恵まれて生きてきた。両親も祖父母もきょうだいも大切に思うし思ってくれているし、お金の心配もしたことがない(これはことさらに両親の努力によるものなので、本当に感謝している)。勉強も運動も自分を嫌いにならない程度にはこなせたし、絵を描くことも文を書くことも写真を撮ることもたぶん、人にためらいなく見せられる程度の技量ではあるのだろう。でもどれも、なにも、なにひとつ、私は自分で選んで決めて掴んできた感じがしない。いつの間にか手の中にあって、いつの間にか結果が転がり落ちてきて、なんかそう言う流れがあって、来るべくして、たどり着くべくして、わたしは今日も「生かされてしまった」。

 なーんてことを、やっぱり基本的に何不自由ない(あえて言うなら体力と休みが足りないくらいだ)生活の中で、ふっとぽっかり考える。こう言うとき、私10年前と考えてることあまり変わってないなーと思って笑ってしまう。いつまで私はからっぽなのだろう、とセンチメンタルなことを考える。どうしたら自分をはりぼてじみて感じなくなるのか、よそものだと感じなくなるのか、手に入らないものにそれでも手を伸ばせるのか、思い切り憤り悲しみ誰かを想うことができるのか。わからない。すこし悲しい気がする。今日はもう寝ようと思う。

相も変わらずとりとめのない書き留め

  15, 2018 18:21
 ブログに広告が出てしまったのでなんか書くね。何を書こうかな。
 そうそう。この2年くらい、星座占いにいまいちぴんとこない。星座占いというか、運勢占いだろうか。上半期とか下半期と毎週だとか毎日だとかの傾向とか対策みたいなやつ。
 私は石井ゆかりさんの「蟹座」や「星ダイアリー」、鏡リュウジさんの「蟹座の君へ」の読者で、それなりに「星座占い好き」の人間であるけれど、ここ2年くらい、ぴっくりするほどぴんとこない。完全に人ごとだ。過ぎ去った時期の占いを読んでも、これから来たる時期の占いを読んでも「誰のこと言ってんだろ」って感じで、あの、運勢占い特有の(全人類をたった12個に分けてるわけだから仕方がないとわかっている)、漠然としたふわふわとした文章が頭を上滑りして入ってこない感じだ。
 星は、この世界を、宇宙を構成するモノのなかでも物理的にでかいし、自力で輝いたり反射して輝いたりするし、とにかく、これっぽっちも私の心身が影響を受けていないなんてことはあり得ないと思うのだけれど、だからこそ、たかだか「12星座」というおおざっぱな括りで、これまでの私やこれからの私を示すのは限界があるのだと思う。言葉を使って示すのなら、なおさら。仕方のないことなのだと思う。12星座の運勢占いは基本的に、私宛ての手紙ではないし、私のための地図や羅針儀でもない。当然のことだ。
 前にもどこかに書いた気がするのだけれど、私はあえて創作の表現手段として「言葉(文章、小説)」を選択している人間のくせに、言葉というモノを基本的に信用していない。これは他人の言葉を信じる信じないとかそういう話ではなくて、私は、言葉はどこまでも無力だと思っている。言葉にしてしまった途端に取りこぼしてしまう、消えてしまう、見えなくなってしまう言葉にならない何かが惜しくて悲しくて恋しくて延々と絶望している(そのくせ私の文章は蛇足と思えるほどに言葉を連ねて重ねてしまう。このあたりにも絶望する)。し、私は言葉そのものには何の力もないと思っている。その言葉を紡いで作る小説、物語も同様に。
 私の書いた拙い(けれど私にとってはいとおしい)物語を読んでくださった方が、「あたたかい気持ちになった」という感想や、時には涙を流してくれた、といってくださることがある。めちゃくちゃうれしい。ありがとう。でも一方で、別に私の言葉や物語に貴方の心を動かす力があったわけではないんですよ、と思う(あ、これもう何回もTwitterとかで言ってる話じゃん。10回はしてる気がする、ごめんなさい)。言葉や物語はあくまでもきっかけとか鍵みたいなもので、全てもとから貴方の中にある何かなんですよ、と伝えたい。貴方と私はもしかすると似ているのかも知れない、だから私の中にあるものの発露でもある言葉と物語が、貴方の内側に共鳴したのかも。でも貴方と私は(当然ながら)違う個体で、人間だから、全てが共鳴するわけではない。全く共鳴しない人の方が多いのだろう。いやめっちゃ当たり前のこと言ってるな、よくわかんなくなってきたけど。
 とにかく私は、(ことさらに私自身が発する)言葉は、どこまでも無力だと思ってるんです。だから(?)、星座の運勢占いにぴんとこないのは別に占い師さんたちがどうこうじゃなくて、単純に共鳴するパーツだか要素だかなんだかが、今の私にはないんだろうと思う。つい昨日おととい、友人と旅行をして「明日のこともわからないよね」って話をしました。明日は漠然と当たり前にくる気がする一方で、明日があるなんて保証がないとも思っている。今日がどれだけ幸せで満ち足りていても、明日はどん底かも知れない。逆に今日がめちゃくちゃ不調でも、明日は逆転ホームランな一日かも知れない。そもそも、明日はこないかも知れない。明日に突然世界が滅びてたって、全然おかしくない。私が今日にたどり着くまでに出会ってさよならしてきた一日、一瞬たちもさだかではない。そんな私に星占いが過去も未来も示してくれるはずがないのである。そりゃそうだわ。方位磁針も地図もなく天候の変化の激しい海をいつ沈んでもおかしくない装備の船で進んでるようなものだものね。目的地も特にないしね!
 たどり着いたところが、羽を休められるところが、たぶんわたしのパラダイスなのだ(本格的に何言ってるかわからなくなってきた)。まあ誰もこんな文章こんなところまで読まないでしょう知ってる。
 そういえば、 「手放せること」「離れても大丈夫なこと」が、私にとって、あえて言葉にするなら「愛情」とかいうたぐいの感情の、一つの区切りであるっぽいということを最近考えた。わかりやすいとこだと実家とか2年過ごした村(無論双方とも行き来はあるのだが)とか、半年に一回ふっと連絡を取り合って旅行に行く大学の友人だとか。点、点、と何かを手放して道しるべのように海に浮かせて、時々振り返っては(例え見えなくても)、それでもどこかにあるのだと、安心できている。今は割とそんな感じで、漂流人生を楽しんでいる。

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