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相も変わらずとりとめのない書き留め

  15, 2018 18:21
 ブログに広告が出てしまったのでなんか書くね。何を書こうかな。
 そうそう。この2年くらい、星座占いにいまいちぴんとこない。星座占いというか、運勢占いだろうか。上半期とか下半期と毎週だとか毎日だとかの傾向とか対策みたいなやつ。
 私は石井ゆかりさんの「蟹座」や「星ダイアリー」、鏡リュウジさんの「蟹座の君へ」の読者で、それなりに「星座占い好き」の人間であるけれど、ここ2年くらい、ぴっくりするほどぴんとこない。完全に人ごとだ。過ぎ去った時期の占いを読んでも、これから来たる時期の占いを読んでも「誰のこと言ってんだろ」って感じで、あの、運勢占い特有の(全人類をたった12個に分けてるわけだから仕方がないとわかっている)、漠然としたふわふわとした文章が頭を上滑りして入ってこない感じだ。
 星は、この世界を、宇宙を構成するモノのなかでも物理的にでかいし、自力で輝いたり反射して輝いたりするし、とにかく、これっぽっちも私の心身が影響を受けていないなんてことはあり得ないと思うのだけれど、だからこそ、たかだか「12星座」というおおざっぱな括りで、これまでの私やこれからの私を示すのは限界があるのだと思う。言葉を使って示すのなら、なおさら。仕方のないことなのだと思う。12星座の運勢占いは基本的に、私宛ての手紙ではないし、私のための地図や羅針儀でもない。当然のことだ。
 前にもどこかに書いた気がするのだけれど、私はあえて創作の表現手段として「言葉(文章、小説)」を選択している人間のくせに、言葉というモノを基本的に信用していない。これは他人の言葉を信じる信じないとかそういう話ではなくて、私は、言葉はどこまでも無力だと思っている。言葉にしてしまった途端に取りこぼしてしまう、消えてしまう、見えなくなってしまう言葉にならない何かが惜しくて悲しくて恋しくて延々と絶望している(そのくせ私の文章は蛇足と思えるほどに言葉を連ねて重ねてしまう。このあたりにも絶望する)。し、私は言葉そのものには何の力もないと思っている。その言葉を紡いで作る小説、物語も同様に。
 私の書いた拙い(けれど私にとってはいとおしい)物語を読んでくださった方が、「あたたかい気持ちになった」という感想や、時には涙を流してくれた、といってくださることがある。めちゃくちゃうれしい。ありがとう。でも一方で、別に私の言葉や物語に貴方の心を動かす力があったわけではないんですよ、と思う(あ、これもう何回もTwitterとかで言ってる話じゃん。10回はしてる気がする、ごめんなさい)。言葉や物語はあくまでもきっかけとか鍵みたいなもので、全てもとから貴方の中にある何かなんですよ、と伝えたい。貴方と私はもしかすると似ているのかも知れない、だから私の中にあるものの発露でもある言葉と物語が、貴方の内側に共鳴したのかも。でも貴方と私は(当然ながら)違う個体で、人間だから、全てが共鳴するわけではない。全く共鳴しない人の方が多いのだろう。いやめっちゃ当たり前のこと言ってるな、よくわかんなくなってきたけど。
 とにかく私は、(ことさらに私自身が発する)言葉は、どこまでも無力だと思ってるんです。だから(?)、星座の運勢占いにぴんとこないのは別に占い師さんたちがどうこうじゃなくて、単純に共鳴するパーツだか要素だかなんだかが、今の私にはないんだろうと思う。つい昨日おととい、友人と旅行をして「明日のこともわからないよね」って話をしました。明日は漠然と当たり前にくる気がする一方で、明日があるなんて保証がないとも思っている。今日がどれだけ幸せで満ち足りていても、明日はどん底かも知れない。逆に今日がめちゃくちゃ不調でも、明日は逆転ホームランな一日かも知れない。そもそも、明日はこないかも知れない。明日に突然世界が滅びてたって、全然おかしくない。私が今日にたどり着くまでに出会ってさよならしてきた一日、一瞬たちもさだかではない。そんな私に星占いが過去も未来も示してくれるはずがないのである。そりゃそうだわ。方位磁針も地図もなく天候の変化の激しい海をいつ沈んでもおかしくない装備の船で進んでるようなものだものね。目的地も特にないしね!
 たどり着いたところが、羽を休められるところが、たぶんわたしのパラダイスなのだ(本格的に何言ってるかわからなくなってきた)。まあ誰もこんな文章こんなところまで読まないでしょう知ってる。
 そういえば、 「手放せること」「離れても大丈夫なこと」が、私にとって、あえて言葉にするなら「愛情」とかいうたぐいの感情の、一つの区切りであるっぽいということを最近考えた。わかりやすいとこだと実家とか2年過ごした村(無論双方とも行き来はあるのだが)とか、半年に一回ふっと連絡を取り合って旅行に行く大学の友人だとか。点、点、と何かを手放して道しるべのように海に浮かせて、時々振り返っては(例え見えなくても)、それでもどこかにあるのだと、安心できている。今は割とそんな感じで、漂流人生を楽しんでいる。
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「やろう」と腹をくくったら楽しさが止まらなくなってしまって、どんどん前倒しに準備を進めてしまうの巻。過去のブログ記事を読み返したら、一応2015年あたりから温めていたアイデアだったみたいです。
タイトルは「コトバ小曲集」。ピアノ小曲集、みたいな感じです(伝われ)。
十二ヶ月の和色をテーマにした、和風アンソロ「あやとりうた」(2012年)。「-um」の付く空間をテーマにした場所アンソロ「arium」(2016年)。そして今年8月に発行した、サイト10周年記念の写真と掌編アンソロ「Anthologia」。そして今回の「コトバ小曲集」。
掌編をテーマとしたのは、ひとえに「Anthologia」がはちゃめちゃに良かったからです(寄稿者様には心から感謝です)。私の撮影した写真を源に文章を紡いで頂いたわけではありますが、短い文字数だからでしょうか、その書き手の方の良い部分とかこだわりだとかがもうぎゅーっと、凝縮されていて!びしびし伝わってきて!それでいて気が向いたときにさくっと読める。これは良い、最高だ、と思ったのでした。

「Anthologia」は20作の収録でしたが、「コトバ小曲集」は私込みで24作の収録となります。特設サイトに「募集人数10人程度」とありますが、これは半分ほどの寄稿者様には私からお声かけをさせて頂いた都合です。
「あやとりうた」では、当時(無論今もですが)私が好きで好きでたまらなかった物書き様(どちらかというと少女小説傾向の方)が中心でした。「場所アンソロ」は公募→抽選とし、図らずしも硬軟絶妙な塩梅になったと思います。「Anthologia」はサイト10周年記念の冊子と言うことも有り、私の写真(作品)を大切にしてくださる大好きな方々のご参加に恵まれました。
「コトバ小曲集」でお声かけをさせて頂いた物書き様の傾向は、「今までご一緒したことのない方」や、長年私が作品を追っている(私のある程度固定化された長年の好み)とは違う界隈の、「けれどめっちゃ好き!」と感じた物書き様が中心です。
これは収録作品の傾向をばらけさせる意図もありますし、悩んだ末勇気が出ずにお声かけできなかった方もいらっしゃいます。どうか、(お声掛けされてないし…)とか(私なんか…)と思わずに、お気軽に(そのための掌編アンソロとも言える)お申込みいただけると嬉しいです。
「参加して良かった」と思って頂ける一冊になるよう、約10カ月間、頑張りたいです。
場所アンソロ同様、WEB企画も実施予定です。イラストその他も参加できるていにいたしますので、いろいろな方にご周知いただければ幸いです。
 今の私のことを書き留めておこうと思う。明日の私は今の私と180度違った人間になっているかも知れないから。
 最近、Twitterで自分の「モノ」の集め方のことをちらりとつぶやいた。私はどうやらモノを「欲しいからor好きだから」、買ったり集めたりするのとは少し違うっぽいということに気がついた(うすうす自覚していたけれど)。もちろん「好き」は大前提(好きじゃないものを買ったり集めたりしても流石に意味がないだろうと思う。お金の無駄だ)なのだけれど、私は常に、その「好きなモノ」を前にした時、迎え入れる場所や空間、あるいは自分自身の内側や外側を想定している。どんなに好きで、惚れ込んだものでも、そのモノが(主には視覚的な)調和を乱すモノのであるなら、招けない、迎え入れられない。特に自室には。
 私は人混みが嫌いだ。人の多い場所には長くいられない。人と話すのは好きだけれど、別れたときに尋常じゃない疲労感に襲われる。親しい、慕わしい相手ほどそうだ(その点、人と話す仕事に就きつつも、基本的に相手とはその場限りの付き合いなのでそうでもない)。だから私は、休日は本当に限りなく外に出ない。ひたすら、自分が招くことを許したモノだけを置いた自宅にこもって、誰とも目を合わさず、言葉を交わさずに過ごす。その時間が絶対に必要だ。その時間と空間があって、私はどうにか私の存在を確かめている。私は私として、1つの存在として世界にいるのだと。世界に溶けて霧散して消えてしまいそうな自分をかき集めている。
 たぶん「私」は、この肉体に収まっていないのだと思う。共感性が高いと言えば聞こえはいいけれど、何でもかんでも「私」に変換しようとする乱暴さと傲慢さがある。テレビニュースに写る犯罪者を「ifの私だ」と思うことを辞められない。仕事先で出会った相手に嫌悪感を抱いたときは、自分もきっとこうなのだと勝手に妄想に駆られる。客観的に自分を見られない、だって他人は全員私だ。
 最初のモノの話に立ち戻ろうと思う。私は「好き」と思うものに出会ったとき、触れたとき、「好き」に加えて、たぶん「私だ」と感じたものを迎え入れている。私の一部、当たり前のように私に寄り添うモノ、私の自室の「本来そのモノがあるべき場所だった(かに感じる)のスペース」に収まる、はまる、しっくりくるモノを、求めている。自室はたぶん、私の体以上に私なのだと思う。私になじむモノ、心地良いモノ、さも探していた私の一部分かのように錯覚するモノを、探している。
 一方で私は、勝手に拡張して肥大していく自分を恐れている。他人の感性を、感情を、知識を、経験を、それらを表した言葉を「私だ」と断じて、取り込んで、自分のモノにしてしまうことを恐れている。Twitterで「ことばは確かに共有されるが、ことばとなるまでの体験は決して共有されない。だからことばの共有が本当にお互いを理解していることになるのか反省する必要があり、それ以上に他者のことばを勝手に掠め取っているのではないかと自問する必要がある。その反省を経て、ようやくことばは表現と呼ばれ始める(引用源)」というツイートを見た。「ほんとそれ」と自分が自分に言った。どれだけ私という存在が希薄で、気体のようで液体のようで勝手に世界に溶け出て他人も自分にしようとしても、やっぱり「私は私」で「他人は他人」なのだ。違うにんげんなのだ。本当の意味で共感はできないし、した気になってはいけないのだ。気を付けて、生きて行かなければ。
 Twitterの話ばかりで恐縮なのだけれど、創作アカウントでこの前「申し訳ないけど、「発想かぶり」をパク扱いされたら創作なんてなんも出来んですし、先に同じ発想の人が居たんですね! としかお返しできない。悪意前提で話されましてもなぁと。茶化し抜きでネタ被りNGにされたら、手塚治虫先生でほとんど詰んでしまうよ…(引用源)」というRTがよく回ってきた。たぶん「賛同」の意味でいろんな人がRTしたんだと思う。そしてツイート主はたぶん、独り言としてつぶやいたのだと思うので、私は別にツイ主に対してどうこう言いたいわけではないし、RTした人たちを批判したいわけでもない。ただ私は、何でも「私」にしてしまおうとする乱暴で傲慢な私は。その「発想」がどこから来たのか、自分の経験なのか本やネットで得た知識なのか学術書なのか論文なのかあるいは誰かの言葉なのか、をなるべく自覚(しようと努力)しなければ、と思う。言い聞かせる。私は私が思っているよりもずっと、たくさんのモノに影響を受けているんだと、自覚しなければ、と。私は私がほんとうに恐ろしい。
 私は0から1を生み出せる人間ではない。物語たちが、キャラクター達が、私が出会ったどの点からやってきたのか、あるいは点と点がつながって線になって、かたちづくられてきたのか。足を止めて時々考えなければいけない。私は。
 その上で、私の中にある点たちを、愛して、尊敬して、感謝して、謙虚に(これがほんとうに難しい)存在しなければ。
 暗い話をしたいわけではなかったのだけれども、暗いな!笑 
 でもたまにはこういう書留もいいかなって。ブログってそういうモノだよね。
 自他の境界線の薄さとか、自室という名の甲羅の中を整えるところとか、めちゃくちゃ蟹座っぽいなーって思うんですけど、私なんかが蟹座代表かのごとく語ると他の素敵な蟹座さん達に申し訳ないから、「蟹座っぽい」くらいにとどめておきますが。というか蟹座のせいにするなと怒られそう。蟹に。
 早朝の仕事を終えて次の仕事に取りかかる前の、雑な書き留めなのでした。いつか読み返して恥ずかしい気持ちなっても頭を抱えてもそれはそれで面白い。

#COMITIA125 ありがとうございました

  27, 2018 20:59
 正直もう一ヶ月くらい前のことに感じています…一週間前?嘘でしょ(驚愕)
 当日のスペースはこんな感じでした。一緒にサークル参加した東堂燦さんの新刊「火葬の娘」表紙のポスターがうつくしい!お隣はだもさん@イチナナで、三人でのんびりお話ししながら(私すっかり失念してたのですが、この日燦さんだもさんはほぼ初対面だった)過ごしました。

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 昨年二月以来のコミティア参加でどきどきしていたのですが、初めましてな方も、お久しぶりな方も、本当にたくさんのかたにお会いできてとても嬉しかったです。おまけ本の献本があった私(顔覚えが悪い)は、人がくるたびに(どなただ…どなただ…思い出せない…)と挙動不審になっていました、申し訳ありませんでした…。お顔とお名前がわかっていても挙動不審だった感は否めない。あ、あととてもたくさん差し入れをいただいてしまって!でもあっという間に食べちゃいましたごめんなさい!とっても美味しかったです。
 燦さんの新刊「火葬の娘」が思いの外男性の方にお迎えいただくことに驚いたり、燦さんが新刊を手渡すたびに「残酷描写がありますが大丈夫ですか…」とお声掛けしていることにふふっとなったり、燦さんのファンの方が「商業一冊目からファンです」と告白(?)する場面に立ち会ってふふふっとなったり(あとは訪れる方に「もしやこの方は…」となったり)していました。あれ、燦さんの話ばかりに。笑 
 だもさんと「文庫本憧れますねー」ってお話をしたりもしました。あ、だもさんのドトールでポメラを使っての執筆記録エッセイ「ポメラでドトーる」本が完売したのですよ。カラーページもあって、アドニスラフの本文用紙の質感がぴったりな、素敵な横長本でした。私が今回ちょこっと製本さんで半カラーの「Anthologia」を印刷したのは、ポメドト本のカラー印刷が十分に綺麗だと感じたからだったりします、という余談。だもさんの新刊「手のなかの後遺症の夜のあと」も最高の青春SF短編集です。全人類読んで…。
 あー!そうだ。お手紙もたくさんいただいて、めちゃくちゃ嬉しかったです。ありがとうございます。大切に何度も読み返します。

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 記念本、総集編ということもあって売り文句もあまり思い浮かばず(今思うともう少しキャッチコピーとか考えればよかった!笑)だったのですが、本当に多くの方にお迎えいただけました。箔押しのきらきらと、表紙のさらさら感を堪能してほしいです。中身も、土壇場で下読みのお手伝いをしていただいたおかげでだいぶ誤字を殲滅できたと思います。大きな加筆修正はありませんが、「からふる、ぱれっと。」は同人誌未収録(かつ、サイトの表にも置いていない)、作品解説もちょこっとですがつけたので(あと一応、書き下ろしも)、少しでもお得感のある一冊になっていれば嬉しいです。あ、龍神あしびは最後の方手を入れました。いい感じに落ち着いたのと思うので、読んでね。
 おまけ本(というのもおこがましい)豪華な写真と掌編アンソロ「Anthologia」は、本当に最高の一冊に仕上がりました。寄稿者様には感謝、感謝ですし、たくさんの方に楽しんでいただきたいです。私の写真とは思えない、素晴らしい掌編集なんだ…!!味をしめて調子に乗って、またいつかこういうのやりたい、みたいな気持ちがあります。

 ティアの話に戻ると、燦さんだもさんとアフターに行きました!!私の聞き間違いでなければ冬ティア出ようみたいな…話が…あったぞ…。お二人が出るなら私もおまけで売り子します!!(新刊を出す自信はない)
 そんなこんなでめちゃくちゃコミティア楽しかったです。ありがとうございました!!

 あ、新刊諸々通販やってます!!よろしくね!!
 https://kotokaze.booth.pm/

#リプで来た単語をテーマに自創作を語る

  13, 2018 00:28
 かまってかまってーとTwitterでしたら、お優しいフォロワさんがかまってくださったぞ!わーい!ありがとうございます!いただいた単語は「宝石と歌」「民族」「雪」「風」でした。み、みなさま私が好きなものがよくわかっていらっしゃるぜ…。つらつら気ままに語ります。

■歌と宝石
歌といえば「響空の言祝」のハフリをはじめ、サイト初期に書いていた琉球風FT「碧海の彼方」にも、歌で海を鎮めたりする異能を持っている子(真喜里)がいたなあ…と思い返しつつ。あと「龍神あしび」のシギラも歌ってますね。わりと歌わせるのが好きみたいです。一方で、歌詞を考えるのは苦手です。歌鳥の民の歌とか、海神の歌とか、直視できないです。厳しい。
歌う。言葉を紡いでいるようにみえて、音律や感情を取り入れて、言葉を超えたところに手を伸ばす行為だなと思います。余談も余談かつ若干響空のネタバレですが、歌のシーンは天から降ってきた恵みを息で体に取り込んで、祈りと願いを混ぜ込んで歌として天に捧げる(奇跡を乞う)イメージでした。
宝石!これもよくモチーフにしますね。宝石というより鉱物かな。パワーストーンって言い方をするとちょっと安っぽいですが、地中などから長い時間をかけて生まれたあの美しい欠片たちに力がないわけないでしょう、という憧れめいた気持ちがあります。自創作では「龍神あしび」「揺りかごの庭」「奇石人形〜」あたりで使っていますかね。いずれも創作鉱物って感じですが。「奇石〜」は今後実在の鉱物も取り入れつつもっともっとキラキラ(物理)させていきたいなあと思っています。まずはプロットの練り直しからだ。

■民族
民俗学や文化人類学を専攻していた人間ではないので、専門知識は皆無に等しいのですが、それでも「異文化」に惹かれてやまない…。創作でも、響空の歌鳥の民はネイティブアメリカン、山烏の民はモンゴル圏の遊牧民、カントコトロはアイヌ風、龍神は琉球風…とあくまでも「風」「風」「風」でやってきましたが、資料に本を読んだりするのは本当に楽しかったですし今もそういった、いろんな民族衣装だとか生活だとかを紹介してくれる書籍は創作関係なしに好きです。そして不思議と、自分の中に専門的な知識が薄くても(無意識の知識の積み重ねかもしれませんが)、ふっと物語の彼らの生活に寄り添ってみると、服装にしろ生活の習慣にしろ、筋の通った何かや理由が見えてきたりするのが楽しいなと思います。南国とか北国も良いですね、山岳地帯もいいなあ…いつかそういったところで暮らす創作世界の子達に会えることを祈りつつ。
これまた余談ですが「色―世界の染料・顔料・画材 民族と色の文化史」を暇な時にぱらぱらみては幸せな気持ちになっています。資料関係の本は(完全に数年放置してますが)一部こちらに記録してあったり。ご参考までに(多分あまり参考にはならない。笑)。

■雪
雪のあまり降らない地域で生まれ育ちました。数年に一回冬に数十センチ積もってかまくら作るぞわーい、みたいな。その代わり、雪に関する記憶で鮮烈なのは、冬休みに祖父母の家(これもまたあまり雪の降らない地域です)の前の道で遊んでいたら、道の向こうからぶわっと風が吹いて、遥かに望む山からきらきらした雪が吹き下ろしてきたんですよね。私に向かって。それが私の中の雪の一番印象的な記憶です。正直ちょっと幻だったんじゃないかと思わなくもないんですけど。この辺は「奇石」の冒頭に繋がってる感じがします。
雪、つまり冬といえば作品としては「カントコトロ」になると思うのですが、そういえばあの物語北国のくせにあまり雪が降っていませんね…(降ったらリムセの道のりはより大変なことになっていたと思うのですが)。ただ、あの森のしんとした空気は雪の降った日の夜や朝を思い出しながら書いていた気がします。音があるのに静かなんですよね。雪に音が吸い込まれていくというか、雪が音を包み込むというか。目が覚めた瞬間に「あ、雪積もってるな」とわかるあの感じ。寒いのにまろやかというか、うまくいえませんが、そういう空気!を意識していました。
長野にきてからは雪に対する認識が変わりましたね…雪…お前…こんなに軽かったのか…という…笑(実家方面はべた雪でした)

■風
「風の描写が好き」っていって頂けるとうれしくなっちゃうマン。見えないものを見えない形で描けるのが文字の凄いところですよね…といいつつ私の風の描写は割とアニメ(とくにジブリ)に影響を受けている気がしなくも…ない…。あの、キャラクターの髪がぶわっと膨らむ感じとか(わかります?)。気に入っている風の描写は、響空のハフリがソラトに「俺の村に来ないか」と誘われる場面、ツムギと天馬に遭遇する場面、奇石の冒頭のラギと父親の場面…とかですかね。他にもいっぱいある気がするけれども。風を描く時はだいたい筆が珍しく乗っている気がします。淀みなく書けるというか、一番キャラクターたちと一体になれるというか…彼らと一緒に目を思い切り開けて風を感じてる、みたいな。好きです。
風といえば響空の青い小鳥・フウはまんま「風」からの名付けでした(そもそも鳥が「風真似鳥」でしたしね…)。あ、サイト名が「コトカゼ(言風)」です。これは何度か言っていますが、前サイト名でギリシャ語の「pneuma」を私なりに再解釈してみた言葉(造語ともいえない感じですが)です。だいぶ長く使っている名前になりました。
風は私の創作、そしてホームであるサイトにとってなくてはならないもののようです(ふふん)

語ったー!楽しかったー!ありがとうございました!

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